■第一話
プロローグ
侵入者
遭遇は突然に
危険な魔族
竜とチョコレート
エピローグ

竜とチョコレート

 部屋に入った瞬間、ほのかに甘い香りがした。
 奇妙に思い、首をめぐらせた勇者は息を呑む。
「…」
 窓から差し込む月明かりに浮かび上がっていたのは、美術品のように見事な調度の数々だった。
 白で統一された壁と天井は木と石で整えられていて、薄暗い中でも目が覚めるほどに美しい。
 それが村の講堂のような広さで奥に続いているのだった。見上げれば呆れるほど高い天井には、銀色の塗料で精緻な模様が描かれていた。
「暗いか? 少しだけ灯りをつけようかの」
 呆然としていた勇者は暢気な声で我に返る。
 壁沿いに設えられた優美なチェストから、陛下が燭台を出していた。
「…」
「どうした、そんな顔をして」
 応えない勇者に陛下は怪訝そうな声を出す。
「…なんか」
「うん?」
「普通だね…」
 窓の傍には大きな花瓶が飾られ、季節の花々が山と生けられている。
 甘い香りはここからか。
「どういう意味?」
 燭台に火を灯しながら、陛下は困ったように笑う。
「…もっとこう、」
「うん」
「気味の悪いものはないの? 人の骨とか、血だらけの刃物とか…」
「…うん?」
「拷問用の鞭とか…」
「…」
 不審げに辺りを見回す勇者に、陛下は片眉を上げた。
「なにを期待していたのか知らんが…、残念だったね。あいにくと居間に人の骨があるような生活をしたことはないな」
 そんなはずはない。
 ―――魔王といえば悪の権化で、その王城には気味の悪い魑魅魍魎どもが巣くっているものだ。
 陰気で骨董品のようなデザインの家具にはもれなく蜘蛛の巣が張っていて、すきま風が鳴らす音は亡霊の恨み声。
 凶暴で面妖な従者たちはマナーもわきまえないものだから、食い散らかしが床に転がり、ねずみたちが駆け回る…。
「…生首もない…」
「どんな怪奇小説だ」
 陛下はうそ寒げに『人間』の娘を見返して、ため息をつく。
「ま、とりあえず落ち着きたまえ」
 近くにある猫足のソファに目を向ける。
「どうぞ」
「…いいわよ、別に」
「僕は座るよ。この年になると立ち話が辛くての」
 あっさり言うと、勇者に流し目を送ってから一人でさっさと腰掛けてしまう。
 傍のローテーブルに置いた燭台を少し動かしてから、リラックスした様子で足を組んだ。
「お腹は? 空いていないか? チョコレートならあるよ」
「…魔族からもらったチョコなんて食べるか、馬鹿」
 勇者は鼻の頭にシワを寄せる。
「そう? 僕は食べるよ」
 威嚇する『人間』の小娘など気に留めるふうでもなく、陛下はテーブルに置いてあった小箱のふたを取った。
 かぽりという音に気を引かれて、勇者はとっさにそちらを見る。
 現れたのは艶々と美しいボンボン・ショコラだ。
「!」
「今日、王室ショコラティエが新作だと持ってきたばかりのチョコレートなんだが、そうか、勇者はいらんのか。まぁ、無理強いはいかんな」
 勇者の視線が思わず小箱に釘付けになる。
 故郷の村では特別な日にしか口にできない黒い宝石。
 その上体は疲れ切っていて、目の当たりにするといつも以上に魅力的だ。
「あえて中身は聞かなかったんだが・・・、ん、これはプラリネだな。香ばしくて、なかなか好い」
 刺さるような視線を面白がって、陛下は美しいショコラを次々と口に放り込んでいく。
「よく舌の上で溶かせというけど、ボンボンはかみ砕いてこその食感じゃあないかな。僕はそう思うけど」
「…」
「こちらは果実のクリームか。パッションフルーツかな」
「―――あのっ」
 気がつくと、声を上げていた。
 陛下はにっこりと笑うと、綺麗な顔を勇者に向ける。
「なにかな、お嬢さん」
「あのさ、あの…」
 ショコラを見てから陛下にちらりと目をやって、またショコラを見る。
「…全部食べちゃうの?」
「だって僕以外に食べてくれる人がいないのだもの」
「…」
 勇者が再び黙り込むと、陛下は白い指先でまた一つショコラをつまむ。
「あっ、あのっ…」
「なんだい」
「その…美味しい?」
 おずおずと勇者が聞くと、陛下はくすりと笑った。
「どうぞ。お食べ」
 優雅な所作で箱を勇者のほうへ押し出す。
 ろうそくの炎が揺れると、ショコラがきらりと光る。悪魔的な光景だった。

 一口ごとに、上品な甘さが頭の芯を震わせる。
「美味しいかい?」
 夢中でショコラを口に運ぶ勇者に、テーブルを挟んで向かい合わせに座った陛下は微笑む。
「…お腹減ってるからなんでも美味しいよ」
「そうか」
 勇者の嫌みにも陛下は朗らかに笑うだけだ。
「こんなにお腹を空かせているなんて可哀想に。きちんとお金は持っているのか?」
「うるさい」
「もし手持ちがないのなら僕が小遣いをあげるから、帰りは十二番街のデリのハーブチキンを試してみるといい。あそこの鶏は美味しいよ、放し飼いなんだ」
「…うるさいな!」
 脳天気な言い草に苛立って、勇者は声を荒げる。
「王都の市街なんて通れるわけないでしょ!」
「どうして」
「魔族がうようよいるのよ。来るときだって大変だったんだから」
 王都に近づくにつれて関所は増えていく。通行証を持たない勇者は王都の少し手前で荷馬車に忍び込んでからは、ただ息を潜めているほかなかったのだ。
「…なるほど。それでそのように奔放な姿をしていると」
「…座れって言ったのはあんたなんだからね。知らないわよ」
 泥だらけの勇者は早口で言った。
 綿のたっぷりと詰まったソファは絶妙な弾力で、極上の座り心地だ。表面に施された刺繍も舌を巻くほど緻密で、勇者には値段の見当もつかない。
 緊張に背筋が強ばりそうになるのをなんとか誤魔化そうと、勇者は無理矢理笑う。
「ま、いい気味ね。泥汚れはなかなか落ちないのよ」
「平気さ。張り替えればいいことだもの」
 陛下は眩しいものでも見るような目で若い娘を見返す。
「意気込んで乗り込んできた割に優しいな、君は」
「な…っ」
 暗がりの中でもそうと分かるほど勇者の顔が赤くなる。なんという危険な魔族なのだ。
「…そういう顔するの止めて」
「僕の顔がなにか?」
「だからっ、そのっ…」
 口ごもった勇者は陛下の金色の瞳にからかうような光を見つけて、ますます頭に血が上る。
とんだ性悪じじいだ。親切な素振りに柔らかな口調。しかし他人を動揺させて愉しむさまは、まさに魔物の所行である。
 むっとした途端、勇者は我に返る。そう、のんびりとお菓子をご馳走になっている場合ではない。
 最後にもう一つショコラを食べると、勇者は怖い顔を作る。
「あんたなにを企んでるの」
「勇者。口の端」
 陛下が真顔で差し出してくるハンカチを勇者は奪い取った。
「…なにを企んでるの」
 ショコラを拭って低い声を出す。そんな娘を鼻で笑うと、陛下は足を組み替えた。
「なにも」
「嘘言え。人質かなにかにしようって魂胆? 残念ね、うちの村は貧乏だし、うちの実家はもっと貧乏よ」
「面白いな、君」
 まじまじを見つめられて、勇者は口をへの字にする。
「馬鹿にしてんの? あっ、もしかして労役? 私の命の保証と引き替えに、さらなる労役を村に課そうとしているのね?」
 他に考えられない。勇者としては正解の手応えがあったが、陛下は薄く笑うだけだ。
 綺麗な顔をじっと向けられて、勇者は身じろぎする。
「図星? なんか言いなさいよ」
「明日帰してしまうのが惜しいな…」
「は?」
 低すぎる呟きを聞き取れず、勇者は眉根を寄せる。
 陛下は目を伏せて苦笑した。
「なんでもない。ところで腹は? ひとまず落ち着いたのなら、今夜はもう寝なさい。明日はたっぷりとした朝食を用意してあげるから。それからすぐに発ちたまえ…あぁ、通行証も持たせよう」
「馬鹿言わないで。なんで普通にご飯もらって帰らなきゃいけないのよ!」
「他になにか?」
 まるで相手にしようとしない魔王陛下に勇者は目の下にしわを刻む。無言で立ち上がると、二人の間にあるローテーブルをガンッと土足をで踏みつけた。
 衝撃で燭台が揺れる。
「いい加減にして」
 陛下はちらりと勇者の靴を見て、彼女の顔に視線を戻した。
 綺麗な形の唇は微笑んだままだ。
 面白がるような目つきに勇者の苛立ちが増す。
 そのまま乱暴な足取りでテーブルを踏み越えると、勇者は勢いよく陛下のクラヴァットを掴んだ。馴染みのない感触だった。これが絹か。
「乱暴はおよしよ」
「うるさい」
 座ったままの陛下が笑いの滲む声で抗議する。
 強引に上向かされた顎の曲線も、さらりと黒髪が滑り落ちる首筋も完璧な美しさだ。暗い中でも仄白いその首筋に、勇者は一度は鞘に収めた短剣を突きつける。
「言ったでしょ。私はあんたを倒しに来た勇者よ」
 少し手元が狂えばすぐに刃が白い肌に食い込む。
 それでも陛下は愉快そうだ。
「聞いたよ。何度聞いても懐かしい響きだ…。昔は大勢来たものだよ、熊のような大男がね」
 その点、君は踊り子のごとく美しい。
黙って勇者が首を絞める力を強めると、陛下はなおも笑い声を立てる。
「すまん。今のはセクハラか。年寄りは加減が分らんのだ。つい思ったことを口に出してしまう」
「余裕ね」
「そうかな…」
 息苦しさに陛下の軽口が少し擦れる。
「余裕というのは…、いささか消極的な表現だな」
「…?」
 わずかに眉を寄せた勇者の手―――短剣を握りしめる右手に、陛下はそっと自らの手を重ねた。
「どちらかというと、楽しい」
 室内なのに、陛下の手はひんやりとしていた。
 滑らかな感触で、傷跡もなければ剣だこもない。それでも勇者のそれよりは二回りほど大きく、関節が骨張っている男の手だ。
「この剣は故郷の村で鍛えたのか? 綺麗な光を宿している」
「な…っ」
 最初はなんのつもりか分からなかった。
 しかしすぐに気付いて勇者の顔が強ばる。
「…放して」
「手入れがいいのかな」
「ちょっと…あのっ」
「それとも、」
 じんわりと、陛下の手が勇者の手ごと短剣を圧迫してきていた。
「使うのは今日が初めて?」
 声の調子はなにも変わっていなかった。そう思って陛下の顔を見返した勇者は短く息を呑む。
月の光を集めたような黄金の瞳の真ん中で、瞳孔が細く尖っていた。
「やっ…」
 混乱しながらも勇者はなんとか短剣を押し戻そうと抵抗したが、びくともしない。白く上品な手からは想像できない力だ。
 見る間に研ぎ澄まされた刃がひたりと首筋に押し当てられた。
「やだ…」
 勇者の目に焦りが浮かぶ。
「やめてよ」
 皮膚を破った感触はなかった。
ただ真っ赤な血が細い筋を描いたのを見て取って、
「…やめてよ!」
 堪えきれずに勇者は悲鳴を上げた。
 その声に陛下は苦笑すると、あっけなく手を放した。力の抜けた勇者の手から滑り落ちた短剣は音もなく絨毯の上に落ちる。
 短剣が手から離れた途端、ドッドッと心臓がすごい音を立てて動き出した。
「どうした?」
 相変わらず陛下の声音に変化はない。
 動揺した勇者はよろめくように半歩後ずさる。得体の知れない恐怖から逃れようと、もう半歩足を引くとローテーブルにぶつかった。
 無様な様子が面白かったのか、陛下は鼻で笑った。
 薄い表皮を一枚か二枚裂いただけの浅い傷を彼はは白い指でおざなりに拭う。
「絶好の機会だったのに。お腹でも痛い?」
「…」
 薄く開いた口元からは真珠色の犬歯が覗いていた。歌うような口調で、瑞々しい声で、辛辣に。
「腰抜けめ」
 娘の怯えを笑う。
「倒すだと? 仕留める覚悟も持たずによく言う」
 老獪な魔族の王の顔をして、この世の誰よりも美しい男はソファの背もたれに深く身を預けた。
一気に存在感が肥大化する―――まるで竜だった。
 太い尾をほんの少し振れば、簡単に人を圧殺できると知っている強者の目差しだ。
 『人間』は本能的に、血の濃い魔族に恐怖心を抱くようにできている。正面からの侮辱にも、勇者の唇からは震える吐息が漏れるだけだ。
 怖い。
「…」
 理解が追いつかない。
 彼は今なにをしたのか。
 拭ったときに付いたのか、陛下の首回りのレースはわずかに赤く染まっていた。
「なん、なんで…」
 ほとんどうわ言のように呟いた瞬間だった。
「!」
 陛下が金色の目を見開く。
「…勇者?」
 反応できずにいると、彼は困ったように立ち上がって勇者の顔を覗き込んだ。視界いっぱいに、陛下の美しい顔が映り込む。
「な…っ」
「どうしたのだ、勇者」
 そう言って、彼は袖口で勇者の頬を撫でた。ようやく勇者も気づく。袖口は薄らと濡れていた。
「どうしたの? もしかして、どこか痛めたのか?」
「…ち、がうから!」
 「かっ」と頬が熱くなって、勇者は陛下の体を押しやる。
 押し出した声は完全に涙声だった。
「こっち、見んな…ばか!」
「訳をお言いよ。泣いていては分からんよ」
 そう、まさか魔族の前で。
 はっきりと指摘されると、もう涙は止まらなかった。
 ―――もう嫌だ。なにもかも限界だった。
 初めて村を出て、臭いのきつい荷馬車に何日も耐えて、何時間も外壁を登って。このまま落ちて死んでしまうんじゃないかと思った。くたくたで。すごく怖かった。
 その上魔王は、あろうことか、あんな自分で…
「…おぉ、よしよし」
 俯いて歯を食いしばっていると、頭を撫でられる感触がした。勇者は嫌がって首を横に振る。
「やだっ…触ん、なっ」
「どうした、うん?」
「…はっ、はなせ…!」
 逃げようとする勇者の腕を陛下が掴む。
「危ない。転んでしまうよ」
「はなせ! ばか!」
「落ち着きなさい」
 優しい声だった。
 つられて顔を上げると、温かい金色の瞳に迎えられた。ほんの先ほどまで零下の目で笑っていた竜は、チョコレートをくれた親切な男に戻っていた。
 なんなの、こいつ。
「なにが悲しいのか、僕に言ってごらん」
「…やっ、やだ」
 ローテーブルに放り出されたままだったハンカチを勇者の頬に押し当てて、陛下は困ったように微笑んだ。
「どうして」
「…だ、だって…」
「うん」
 ぎゅっと目をつむると、陛下の首元に付いた血が蘇った。短剣はもうない。なのに手が震える。
「なんで…、あんな、じぶんで…馬鹿…」
「なにが」
「じぶんで、あんな…危ない、こと…」
 そこで、ようやく勇者の言葉の意味に気づいたらしい。
「僕か?」
「…」
 鼻水をすする『人間』の娘の隣で、陛下は眉を下げる。なにか言おうと口を開きかけて、閉じた。蝋燭の垂れる音が「じじっ」と響いた。
 しばらくしてから、
「…怖かったのか?」
 呆れた声だった。勇者が体を強張らせると、彼はため息をつく。
「泣くほど?」
「…う、るさい」
「ふむ…」
 それからまた少し黙った後、陛下は短く言った。
「すまん、やりすぎた」
「…」
「僕が大人げなかった」
 勇者が無視をしていると、
「ご覧、勇者」
「…うるさい」
「いいから。ご覧よ」
 甘やかすような声で囁いて、勇者の手を取る。
「放せ、馬鹿…」
 思わず彼を睨み上げた勇者の目に映ったのは、彼の白い首筋だった。
 先ほどの浅い傷…。
「?」
 完全に血が止まり、すでに薄く皮が張り始めていた。
 きょとんとする勇者に陛下は微笑む。
「明日の朝には痕さえなかろう。この程度は傷とは言わん」
「…どうして」
「君たちとは代謝が違うのだ」
 話で聞く恐ろしさとはかけ離れた、天使の容貌で笑う男。
 綺麗で清潔な居室で生活し、皮膚を破れば赤い血が流れる―――それでも、確実に違う生き物なのだ。
「涙が止まったな」
 手品でも見ているような気分だった。
 しばらくぼんやりと傷を眺めてから、陛下の顔に視線を移す。
 彼は苦笑いしていた。
「泣かせるつもりではなかったのだ」
「…」
「ただ少し、意地悪をしてやろうと思っただけで」
「…なにそれ」
「君が頑固だからさ」
 陛下は眉を上げると、再びソファに身を沈めた。足下に落ちた短剣を軽く蹴る。
「どうして、泣いていたの?」
「…」
「なにがそれほどまでに怖かったの?」
 陛下の言葉に、勇者も考え込む。自分でも正体がよく分からない感情で、上手く言えない。
 ただ―――
「…あ、あんたが、凄く強い力で押してくるから」
「だから?」
「だからその、し…、死んじゃうかと思って…」
 尻すぼみに言う勇者に、陛下は「ふうん?」と唸った。
「君はなにをしに来たのだ」
「…」
 黙る娘に「まずい」と思ったのか、陛下は声の調子を優しくした。
「だから僕は最初から、大人しく帰れと言っているのだ」
 言いながら、腰を浮かせて陛下はソファの端に寄る。
「お座り」
「…いいよ」
「目の前でいつまでも立っていられると、僕が落ち着かない」
 やや強引に手を引かれ、彼の隣に座らされた。そんな場合でもないのに、うっとりとするような香りが鼻をくすぐる。
「殺さずに、どう倒そうと思って来たの?」
「…刃物で脅かせば、言うことを聞くと思って…」
 『人間』の解放や独立を約束させるつもりだった。
「上手くいくと思ったんだ…」
 実際にはまったく上手くいっておらず、勇者は恥ずかしそうに俯く。
 その頭がぽんぽんと軽く叩かれた。
「君の村の者はひどいな。こんな子どもを一人で王都に寄越すなんて」
「子どもじゃない! それに…」
 とっさに言い返して、勇者は力なく続ける。
「それに、黙って出てきたんだ…」
「つまり家出娘か、君は」
 ぐりっと肘を当てると、陛下は愉快そうに笑った。
「分かっている。故郷の皆のために勇気を出したのだな。君はよくやったよ」
「…まだ私はなにもしてない」
 褒められるようなことは、なに一つできていない。
 侵入には失敗するし、魔王に餌付けされるし―――挙句の果てには、少し脅されて泣き出す始末だ。
 顔を上げようとしない勇者に、
「充分さ、普通の若いお嬢さんなら荷馬車に忍び込めないに違いない」
「…馬鹿にしてんのか」
「していないよ。…そうだな、どうしても成果が必要だというのなら―――」
 陛下はくるりと目を回して天井を見た。
「近いうちに地方役人を君の村の領主のところに向かわせよう。理解のある者を選ぶから、根拠さえあれば税が軽くなるかもしれない」
「…」
「君の名を出すように言っておく。立派な功績だぞ」
 勇者は視線を上げた。「どうだ?」と陛下が眉を上げる。
「…」
 陛下の理知的な声がじわじわと頭に染みこむ。
 魔族を倒すことはできていない。でも、減税の可能性だって夢のようだ。
 いつもの地方役人は高慢が服を着ているような男で、天候が悪くても、流行病で働ける村人が少なくても、同じように高い税金を要求してくる。
 勇者の心がぐらつく。
「…戦ったことになるかな、私」
「なるとも。減税の陳情は日に何百通と送られてくる。その手の訴えはまず僕のところまでは回ってこないし、仮になんらかの理由で目にすることがあっても、僕だってすべての減税を許可しているわけではない」
 つまり、特別に厚い取り計らいということだ。
「―――どうして?」
「君が勇敢だったからさ。ここ数十年、勇者など乗り込んできたことがない」
 もっともらしく言うが、陛下の目はにやにやと笑っていた。
 勇者は半眼になる。
「間抜けで悪かったわね」
「僕そんなこと言っていないよ」
「腹立つ・・・」
 キラキラと音がしそうな笑顔を振りまく陛下に再び肘を当てた勇者だったが、ふと真顔になる。
「ほんとに、どうして?」
「うん?」
「あんた、なにを考えてるの?」
 魔王といえば、悪の化身だ。
 先の大戦で多くの『人間』…あるいは、魔族の命が失われたことはおとぎ話ではない。
 証拠に『人間』たちは辺境の村に閉じ込められ、今日も辛い肉体労働を強いられている。
 本当はいい人でした、などということはありえない。
「あんたが本物の魔王なら…悪い奴なのは確かよ」
「そうだね」
「綺麗な顔して誤魔化そうったって、そうはいかない」
 勇者の中で疑問が渦巻く。
 そう、この男は最初から優しかった。
 一目で『人間』の娘だと分かったはずなのに、迷い込んできた猫の子でも相手にするような素振りだった。
「あんたは…人殺しだ。悪い奴だ」
「そうだね」
 陛下は静かに頷くだけだ。
 勇者は彼の金の瞳を見返した。
「それなのに、どうして? なんで私を匿ってくれたり、お菓子をくれたり…減税だって…」
 陛下はじっと自分に向けられた瑠璃色の瞳から目を逸らさず、しばらく無言だった。
 羽毛が積もる音さえ聞こえそうな静寂が続いて、
「…僕は退屈しているんだ」
 陛下はふと笑った。
 美術品のような顔に似つかわしくない、疲れた老人のような微笑みだった。
「どういうこと?」
「君が面白かった。ただそれだけだ」
 なおも勇者が納得できない顔をすると、陛下はショコラの空き箱に目をやった。
「このチョコレート美味しかっただろう?」
 突飛な話題に鼻白みながらも、勇者は頷く。
「う、うん」
「でも、もし、もう一箱やると言われたら?」
「う、嬉しいかな…?」
「バケツいっぱいやると言われたら?」
「…うーん…」
「明日も明後日も、その次も、毎日ずっと、好きなだけ食べられるとしたら?」
 想像して、勇者は苦笑う。
「…考えちゃうね」
「そう、この小箱ひとつきりだからこその魅力がある」
 陛下は静かな声で言うと勇者に目を戻した。
「僕は甘いお菓子が大好きだ。そして毎日周りにはチョコレートの山。もちろんすべて僕のもの。これが僕の日常」
 人も物も権力も、すべてを手に入れた男はため息をついていた。
「言い訳はしない。僕は悪い奴だ。君の言うとおりね」
「…」
「でも、世界統一をして初めて知ったこともある。万事が自分の意のままというのは…生きているのだか死んでいるのだか、分からなくなるということなのだ」
 ずいぶんと、感傷的な言葉だった。
「…身勝手な言い草ね。多くの『人間』を踏みつけにしているくせに」
「そうだな、それは事実だ」
 勇者は下唇を噛んだ。
 なんという許しがたい態度だ。
 『人間』を支配しておいて、自由が退屈だとは。腸が煮えくりかえり、思わず感情的な言葉を―――
「…だから、死のうとしたの?」
 勇者の口から飛び出してきたのは自分でも予想だにしない問いだった。
 ぎくりとする彼女の正面で、陛下も目を丸くする。
「なんだって? 誰の話だ?」
「いや、だから、」
 触れずにおこうと思っていたのだが、言ってしまったからには仕方がない。
「あんたがさ、さっき、バルコニーで…。ど、毒を飲もうと…」
「していないよ」
「嘘つけ! 見てたんだから!」
 勇者が顔を赤くして叫ぶと、陛下は「しっ」と短く注意してから首をひねる。
「あ…、もしかしてアレかのう」
 のんびりとした調子で陛下は件の毒の話をする。
「そう、それ!」
「確かに君たちには危険なものだな」
 そう言って、陛下は立ち上がって壁際の大きなチェストに向かうと、なにやら手にして戻ってきた。
 再び隣に腰掛ける彼を見た勇者は目を瞠る。
「それ…」
 水晶を丁寧にカットした、玉ねぎに似た造りの小瓶。
 陛下は面白そうに勇者を横目で見てから、素早く小瓶のふたを開けると一滴舌の上に垂らしてみせた。
「!」
 勇者が止める間もない。
 青ざめる勇者をよそに、小瓶をテーブルに置くと陛下は気持ちよさそうにソファに身を預けた。
「…だ、大丈夫なの」
「うん」
「し、死なないの…?」
「うん」
 頷く彼の頬が、心なしか赤く染まってきた。
だが、それだけだ。
「あー…、さすがに原液は効くの…、もう僕も年だな…」
 薔薇色の頬で陛下は笑う。
「これは酔い薬だよ、勇者」
「…」
「普通のアルコールだと、飲んですぐに無害化されてしまうので僕は楽しめないのだ。だから酔いたいときはこれを使うのさ」
 勇者は絶句するしかない。
 なんという体のつくりなのだ。
「従者のほとんどは阿片を使う程度だけどね」
「へえ…」
 呆然と呟いた勇者は、ふとあることを思い出す。
「ねぇ、ついでに聞きたいんだけど…」
「なんだい」
「あんた、最初に会ったとき…なにかした?」
 意味が分からない様子だったので、勇者は言い足す。
「ほら、バルコニーで…」
「うん」
「目が合った瞬間、なんか…こう、変な感じがしたんだけど…」
 うまく表現できない。もごもごする勇者の姿に、陛下はぴんときたようだった。
「あー、少し《隷属》しかかったのかもしれんのう」
「れいぞく?」
「そう。血の濃さ、という概念は分かるな?」
「う、うん…」
 その血が濃ければ濃いほど、古ければ古いほど、魔族は強大な力を持つとされている。
「血の濃さは本能で嗅ぎ分けるものだ。そして、自然と階級が生まれる。王族の血には、他者を進んで従わせる力がある」
「…怖くて、逆らえないってこと?」
 先ほど、一瞬彼が竜のように見えた。思い出すだに恐ろしくて、勇者が震えた声を出すと、陛下は穏やかに首を横に振った。
「少し違う。《隷属》は甘美なものだ。愛に似ている」
「あい…」
「同じく血筋の古い、高貴な種族…人魚や妖精、そして竜などには緩やかに作用する。人の姿をしたすべての魔族もこちらに属する。逆に本能に偏った『意志なき魔族』などには非常に強く作用する」
 初めて耳にする話だった。
 村の図書館にあったどの本にも書いていなかったし、どの大人も話してはいなかった。ただ一様に「魔族の王は恐ろしい力を持ち、恐怖によって臣下を支配している」としか教えられてこなかった。
 勇者は好奇心に輝く瞳を陛下に向けた。満足げに彼は頷く。
「そうやって僕たちは、ただ一人の王を愛しながら繁栄してきたのだ」
 本来は魔族特有の体質なのだが。陛下はくすりと笑う。
「たまに『人間』にも影響することがある。心配ないよ。意志を操ったりする類いの力ではないから」
「隷属なのに、操るのとは違うの?」
「愛だと言ったろう? あくまで指向性の問題で、僕の意志でどうこうできるものじゃあない。現に、君は僕に支配されてはいないはずだ」
「そりゃ、まぁ…」
 不思議な感覚は、あの一度きりだ。強烈だったのは―――認めたくないが―――生物的に『人間』が魔族の下位に位置するからだろう。
「…また、ああなることがあるのかな?」
「どうかな…。僕は『人間』の生理をよく知らないからはっきりとは言えないけれど」
「あるとしたら、ちょっと怖い…」
「大丈夫さ、せいぜい害があって、僕を好きになるくらいだもの」
 勇者が無言で睨みつけると、陛下は「冗談だ」と笑った。
「『人間』は強い自我を持っている。種族も違うし、完全に《隷属》されることはないと思うよ」
 優しい目だった。
 蜂蜜のような深い金色の瞳を勇者は見返す。そのまま、お互いに無言でいたが、しばらくしてぽつりと陛下が呟く。
「しかし、やはり君は少し変わっているな」
「…」
「僕を助けようとしてくれたのだろう」
 からかうような調子ではなかった。
「…もういいじゃん。その話は」
「どうして」
 真剣な声だった。だからこそ勇者は恥ずかしくなって、俯く。
「だって…見当違いだったから…」
「そんなことは問題ではないよ」
 陛下は微笑んで勇者の手を取る。
 彼の手は先ほどより、少し熱くなっていた。
「!」
「君、本当に故郷の村に帰りたくないの?」
 勇者はちらりと陛下の顔を見た。
「…出てくる前にちょっとね。減税の話は嬉しいけど、すぐには帰りづらいんだ…」
「ふむ…」
 陛下は勇者の手を放さない。
 胸が、うるさい。心が定まらない。無理やり振りほどきたいような、このままでいたいような…待って、本当に《隷属》されてないんだよね?
 複雑な乙女心に体を硬くする勇者に、
「なら、少しだけ城に留まってみるか?」

 陛下はにやりと犬歯を見せた。