侵入者
軽快なリュートの音色に店員の声が重なる。
「お待ちどおさま! 熱いから、気をつけてくださいね」
てきぱきとテーブルに並べられていく皿の上では、肉の脂がパチパチと弾けていた。
「待ってました!」
洗練された文化を持つここ王都でも、この辺りの店の料理は豪快そのものだ。
「うまそうだな…俺はこの季節のシカが一番好きなんだ!」
「おい、早く取り分けろ」
時計の針はもうすぐ頂点で重なろうとしている。
夜が深まっても、町の酒屋から活気が失われることはない。
「【竜の杯新聞】、連載小説が三期目だな」
「そうそう。一期から読んでるからさ、なんかもう感慨深くて」
「済みません、三〇分前に注文したシカがまだ来ないんですけど…」
「あれ、これ向こうの?」
「いいよ、もう手を付けちまったよ」
店の中はお客で満杯、テーブルは外の通りにまで広げられている。
降るような満天の星空の下で、人々は陽気な笑い声を立てていた。
『人間』たちと戦った先の統一戦争が終わってから、もうすぐ八十年が経とうとしていた。
街並みは美しく、人々は皆健康そうで、今や戦火の名残を見ることはない。
こうして、一日の終わりを満ち足りた気持ちで迎えられるのも―――
「魔王陛下に栄光あれ!」
「我らが陛下に乾杯!!」
すべては偉大なる父、魔王陛下あってのことだ。
かちんと杯を打ち合わせた男たちは一気に飲み干すと、なにも言わずに同じ方向に目を向けた。
「…」
人混みを抜け、酒屋を抜け、夜でも眠らない市街を抜け、少しの間、男たちは聖地に思いをはせる。
町の皆が暮らす中心地から離れること北に数キロ。天然の城壁である深い森に囲われた中央に、その城はあった。
まるで一つの町だった。
ずらりと並ぶ館に、丸い屋根を持つ巨大な講堂、天を突くような尖塔、そして複雑な空中回廊…それらはすべて力強い円柱と優美なツタ柄が調和した古代バロック様式で、時代が流れても色あせない魅力を醸し出している。
広大な庭には白大理石でできた噴水が鎮座し、中央に立つ女神像が持った瓶からは清水がこんこんと湧き出ている。
かすかな水の流れ以外に音はない。
「お疲れ様です」
主居館の外回廊から眺める月は衛兵たちの密かな楽しみだ。
ぼんやりと天空を仰いでいたベテラン衛兵は、緊張に硬くなった声に振り返る。手提げランタンの光に浮かび上がっていたのは髭もない、細い顎の若者だった。
「交代の時間です」
「見ない顔だな」
「はっ! 本日より王城の警備を務めることとなりました」
訓練学校そのままに、新米衛兵はかしゃんと踵を合わせる。
「気合十分だな。そんな様子じゃ、一晩もたないぞ」
「はっ!」
新米衛兵は瞳を輝かせてきびきびと返した。
「お言葉ですが、いやしくも城内警備兵の一員となりましたからには、一瞬たりとも気を抜くわけにはまいりません」
希望に満ちた目だ。誇らしさが全身から湧き出ていて、見ているほうとしては少しこそばゆいような心地がする。
ベテラン衛兵はふっと苦笑すると、
「…ま、頑張れや。就任式はいつだった?」
「五日前です」
「陛下もご臨席されたか?」
「!」
新米衛兵の顔が固まった。
凛々しかった眉は下がり、真っ直ぐに上げられていた視線が不自然に泳ぎだす。なるほど。ベテラン衛兵はすぐにピンときた。
「…ははぁ、さては陛下のお姿を直に拝見したのは初めてだな」
「えぇ、まぁ…」
「危険な方だったろう」
「…」
答えようとしない若者に、ベテラン衛兵はにやりと歯を見せた。
「顔が真っ赤だぞ」
「なっ…」
とっさに新米は顔を覆う。
「…ははっ、そんなうろたえるなよ。誰もが通る道さ」
「そんなっ、私は…」
耳まで赤くして、新米衛兵は拳を握りしめた。
「誤解です!」
「そうムキになるなって」
「…わっ、私にとってこのたびの着任は夢のようなことです。…い、いかに陛下が危険な方であろうと、その任務に私情など、その…あっ、ありえません…!」
「分かった、分かった」
震える若者に、大人げないと思ったのかベテラン衛兵は両掌を見せた。
優しく新米の肩を叩く。
「ま、気楽にやれ。今の王都は平和そのものだ。地方貴族も大人しいし、粗暴な『意思なき魔族』(人語を解さない魔族のこと)は辺境の地で抑えられている」
「はぁ…」
「せいぜい居眠りに気を付けろ。じゃあな」
もう一度軽く肩を叩くと、ベテラン衛兵は仮眠のために踵を返す。
暗い回廊にぽつりと残された新米衛兵は、先輩の気配が完全に消えると深いため息をついた。合間に「私は臣下…私は臣下…」と唱える。
「…それにしても陛下があのような…、絵姿では拝見していたが、まさか、あれほどとは…いやいやいや!」
深呼吸する彼が自分のすぐ近く―――回廊の真上の外壁に潜む影に気付く様子はない。
暗闇の中で、青い二つの瞳がゆっくりと瞬いていた。
「ま、気楽にやれ。今の王都は平和そのものだ。地方貴族も大人しいし、粗暴な『意思なき魔族』(人語を解さない魔族のこと)は辺境の地で抑えられている」
早鐘のような鼓動が耳元で大きく響く。
足下から聞こえてくるのは二つの男の声だ。
「せいぜい居眠りに気を付けろ。じゃあな」
―――最低でも、二人の魔族が自分のすぐ傍にいるのだ。
自分の鼓動が、息づかいが伝わりそうで、人影は身を強ばらせる。大丈夫だ。バレていない。バレていたら捕まえに来るはずだ。だから、大丈夫。だいじょうぶ…。
ずいぶんと時間が経ってから、ようやく人影は息をついた。
もう会話は消えていた。ちらりと足下に目を向けると、明かりはまだある。
「…」
震える足を励まして、そろりそろりと人影は動き出した。
月明かりの下、額に汗を浮かせていたのは若い娘だった。それも綺麗な若い娘だ。
闇夜に美しく波打つ髪は透き通るように淡い水色。好対照に深い瑠璃色の瞳は大きく、品良く整った顔つきは良家の令嬢といった雰囲気さえある。
…しかし、男勝りな軽装は泥で汚れ、可愛らしい顔にも土埃がこびりついている。汗が通ったあとだけが、くっきりと白い。
なにより、彼女が立っていたのは―――
「…」
びゅおうびゅおうと耳元で風が鳴ってる。
娘が石壁に胸を擦りつけながら慎重に横歩きしていたのは、二〇センチもないような外壁の装飾部分だった。
もちろん、手すりなどはない。
「…」
下だけは見ないよう、歯を食いしばる。
こうしてヤモリのように外壁を登り始めてどのくらい経ったものか―――いまや地上ははるか遠く、もし落ちれば命はない。
…えぇと。どうしてこうなったんだっけ。
疲れ果てて、娘は遠い目をした。
暗い森を抜け、誰にも見つからず、敷地内に侵入したまでは完璧だった。そして、もっとも警備が薄いと思われる場所…外壁を登り始めたときも意気揚々だった。
間抜けでお上品な魔族さま方は、まさか人が外壁を登るとは夢にも思うまい。あとはある程度登ってから、窓かどこかから城内に入り込めば―――
「甘かった…」
どんどん高くなる月の下で、娘はうなだれる。
いっこうに都合のいい窓はないし、先ほどのような外回廊には必ず見張りがいた。考えたくないが、足も、手も気力も、限界が近い。
「…陛下だって」
娘の脳裏に先ほどの会話が蘇る。
今この世界に君臨する王といえばただ一人、魔王陛下だけだ。
目を背けたくなるほど極悪で、耳を塞ぎたくなるほど残虐な魔族の王。
噂によると、天候の良し悪しで人の首をはね、晩餐後の余興で臣下を拷問し、何よりの好物は『人間』の若い娘を生きたまま火で炙った、生娘のローストだという…。
多少尾ひれがついているものかと思っていたが、同胞にまで恐れられているとは、なんという悪漢なのだ。
「火とか、吐いたりして…」
物語に登場する邪悪な竜は、たいてい火を吐く。ならば、長である魔王もそれくらいできても不思議はない。
いまだに一度も目にしたことのない魔王の姿をあれこれと想像していると、突然娘の左手に痛みが走った。
「っ」
こわごわ見ると、小指の爪が小さく割れていた。長い時間、石壁の隙間に食い込ませていたためだろう。
割れ目には血が滲んでいて、娘の目がにわかに潤む。
痛いわけではない。こんなの、痛いうちには入らない。ただ、なんというか…一気に疲れた。
「父さん…」
故郷の父は、最初から反対していた。
「無理だ」と、ろくに聞く耳すら持たなかったのでこっそりと村を出た。やはり父の意見が正しかったのだろうか。自分は向こう見ずで、力不足で。現に、こんな抜き差しならない状況に陥っている…。
「!」
涙が零れそうになった娘は、反射的に顔を上げた。
蒼い瞳にぼんやりと白いものが飛び込んできたのは、そのときだった。