いとしの魔王陛下
薄闇の中、少女の熱っぽい声が漏れる。
「あぁ、なんと麗しい…」
彼女の視線の先には、銀縁の写真立てに収められた一枚の写真があった。
蝋燭のささやかな灯りに照らし出されていたのは、黒髪に金瞳の麗人―――我らが魔王陛下である。
写真は先日の園遊会で撮ったものだ。
貴重なカラー写真を撮影することのできる最新の写真機に加え、遠くからこっそりと撮るための望遠レンズ、最後に現像代を加えると、ひと月の使用人給金の半分近くを費やしてしまったが出来映えは大満足できるものだった。
「陛下…」
うららかな日差しの中、賓客に向けられた主の優雅な微笑みが眩しい…。
国政の重鎮を輩出することも多い、誇り高き純血エルフにして、格式高き魔王城のメイドであるジェシカは最近悩みを抱えていた。
それというのも、先日より使用人として城に紛れ込んできた小憎たらしい『人間』の娘のことである。
―――そもそも、世界最高峰の仕事の精度、細やかな気配りが求められるこの城になぜ『人間』の娘などがいるのか。
先の統一戦争から早八十年近く、ほとんどの『人間』は南の果てに追いやられ、尊き魔族の生活圏で見かける者は数えるほどだ。彼らもせいぜいが馬の番や豪商の屋敷の清掃に従事するのみだというのに―――よりによって王城のメイドとは!
なんでも、家出娘を陛下が不憫に思われ、しばらくの間行儀見習いとして城に置くことにされたらしい。
噂では正式な目通りの許可書などはなく、夜分にいきなりやってきたそうだ。
そのような不躾極まりない娘にまでご慈悲を垂れるとは…さすが我らが主、魔王陛下。ご容姿のみならず、御心までお美しいのだ。
いや、美しいだけではない。聡明で、気高く、かつユーモアもお持ちで、まさに光の化身、民草のよりどころ、すべての輝けるものも、かの高貴な方の前では色あせ―――
…それで、えぇと、そう。
問題はその『人間』だ。
極めつきに、その娘は勇者だというではないか!
勇者といえば抵抗勢力の筆頭、『人間』の中でもとりわけ野蛮な者どもだ。
お優しい陛下は、まだほんの子どもだから捨て置くようにと笑っていらしたそうだが、そうはいくまい。
万が一…、万が一にでも陛下の玉体が傷つけられることでもあれば、小娘の命では到底釣り合わないだろう。
…駄目だ、考えただけでも背筋が凍る―――
「あっ、ジェシカ!」
物思いにふけっていると、突然呼び止められた。
この無神経で甲高い声は…
「良かった! 迷っちゃってさ、リネン室ってどうやって行くんだっけ?」
「…勇者さん」
ジェシカの眉間にシワが寄る。
「何度も言っているように、廊下は走らないでください」
「無理だって。この広さでのんびり歩いていたら、移動だけで日が暮れるよ」
まったく。
ため息をつきかけて、ジェシカの眉がキリリとつり上がる。
「それに、なんという格好をしているんですか!」
「え…」
城には日夜、軍事、経済、その他ひとかどの客人が訪れるのだ。
「おかしいかな」
「配給の制服はどうしたんです」
黒のロングスカートという、シックで伝統深いメイド服は王都の女性なら誰もが憧れる衣装だ。
子爵令嬢として育ったジェシカにとっても、王城での奉公は長年の夢だった…初めてこの制服に袖を通したときの、なんともいえない感動を今でもはっきりと覚えている。
それがなんということだろう!
「お願いですから、野良犬みたいな姿で城内をうろうろしないでください!」
仮にも淑女でありながら、勇者は太ももまで見える短すぎるズボンにタンクトップ姿だ。
ジェシカの心からの叫びにも、勇者は不満そうだった。
「さっきまでエプロンはしてたんだけど…、なんにしても丈が長すぎて動きづらいんだもの」
「だからこそ、楚々とした立ち居振舞いが身に付くのです!」
目眩がしてくる。
がっくりと額に手を当てて、その指の隙間からジェシカは勇者を睨んだ。
最大の問題は別にある。
「…あー、お説教はあとで聞くからさ、とりあえずリネン室の行き方教えてくれないかな」
大きな洗濯カゴを抱え直して勇者は苦笑う。
「今日の昼食、陛下に呼ばれてて。もうあんまり時間がないから、早いところ仕事を済ませないとまたメイド頭に怒られちゃうよ」
「…」
「ジェシカ?」
そう、あろうことか、この野良犬娘を陛下がお気に召していて、なにかとお側に置かれたがるのだ!
もやもやとした気持ちを引きずりながら、成すすべもなく過ごしていたある日の午後。
お茶を届けに陛下の執務室の前まで来たジェシカは、扉の前で足を止めた。
楽しそうな笑い声。
ひとつはジェシカの大好きな、甘く深い男性のもので、もうひとつは最近よく耳にするようにになった娘の…
「…」
あまりにも悔しくて、ジェシカは呆然とする。
自分のほうが、ずっと長く、ずっと近くにいたのに。
それでも畏れ多くて、手を伸ばせなくて、ただお仕えする一人でいるだけで満足だと、自分に言い聞かせて。
それなのに、ものの分別がつかないあの小娘はあっという間に、陛下の隣に――――
「…」
ジェシカは震える息をはいた。
大人げない。
なまじっか見た目が近いせいで忘れがちだが、相手は二十年も生きていないような幼い子どもだ。同じ土俵で腹を立てるほうがどうかしている。
お茶が冷めないうちにと、ジェシカは扉をノックした。
「どうも…」
開けてくれた従僕の青年にお礼を言いつつ、ジェシカはさっと室内を見回す。
やはりいた。
珍しい水色の髪を高く結い上げて、今日もはしたない格好で、少女は陛下の隣に立っていた。
「失礼致します。お茶をお替えします」
ジェシカは強引に笑顔を作る。
「あっ、お疲れー」
能天気に、こちらに手を降るのは勇者だ。
それを無視して、ジェシカは執務机の脇にワゴンを留めた。
「陛下、失礼致します」
「うん」
手元の書面から顔を上げて、陛下は微笑んだ。
「おや、ジェシカか。今日は当たりだな」
「?」
「早く淹れておくれ」
内心首を傾げながらも、ジェシカは手早く支度をする。
冷めた杯を下げて、温めた杯に銀の茶こしを乗せる。 茶葉はジェシカのブレンドだ。苦すぎず、甘すぎず。何回も何回も試した。
程よく蒸らされたルビー色のお茶が注がれると、湯気と共に芳醇な香りがふわりと立ち上る。
「よい香りだ」
ジェシカの手際を眺めていた陛下が頷いた。
杯を手にすると、形のよい鼻先でさらに香りを楽しんで、
「…そう、これこれ」
満足そうに笑った。確かめるように口をつけて、再び頷く。
「陛下?」
「お茶とはかくも繊細なものだ」
不安げなジェシカを、陛下は悪戯っぽく見上げた。
「ひきかえ、この娘はなにかと不器用での」
顎をしゃくられた勇者は顔を赤くする。
「別に今私の話をしなくてもいいじゃん!」
「このとおり、がさつというか大雑把なたちなもので、お茶にも性格が表れるのだ」
陛下は愉快そうに笑うとおもむろに立ち上がって、ジェシカの肩に手を置いた。
「いつもありがとう、ジェシカ」
「へ、へいか」
至近距離で輝く美しい笑顔にジェシカの体が強ばる。
「僕は君の淹れてくれるお茶が一番好きだよ」
逃げる間もなかった。
ふいに肩に置かれた手に力が込められたかと思うと、陛下の唇が「ちゅっ」と軽く額に触れた。
「!!」
「近頃元気がないが、僕にも言えないことか?」
「あっ、えっ、いえ、その!」
「若い娘はただ笑っているだけで価値のあるものだ。笑顔でいなさい、ジェシカ」
…そこから先の記憶はあまりない。
気づけば厨房に茶器を下げに来ていて、
「というわけで、よろしくね」
なぜか傍には『人間』の小娘がいた。
「…はっ?」
「大丈夫だって! お茶の淹れ方くらい、すぐ覚えるから!」
「なんですって…?」
呆然とするジェシカをよそに、勇者は一人頬を膨らませる。
「ほんと、あいつ失礼だよね! 人がせっかく淹れてやったのに『これはお茶ではないな』とか言うんだよ。しかもすごくキラキラした笑顔で!」
ギャフンと言わせてやる!と息巻く勇者を眺めているうちに、段々と記憶が―――
『よければこの娘にも、君の素晴らしい腕前を少し分けてやってくれないか』
『君以上の適任者はおるまいよ』
『信頼しているよ、ジェシカ…』
そうだった。
ありがたき王命がこの私に!
「…分かりました、勇者さん。私があなたにお茶の淹れ方を教えてあげます。態度によっては、秘伝のブレンドも教えてあげましょう」
「やった!」
「ただし!」
喜ぶ勇者の目の前に「びしっ」と指を突きつける。
「まずは衣服から改めなさい。そのような小汚い格好で陛下に近寄って…陛下にノミでも付いたらどうするのですか」
「はっ? ノミなんていないし!」
勇者はショックを受けたようだったが、構うものか。
そう、相手は所詮『人間』の子どもだ。
戦争は終わったのだから、蒙昧な存在を温かく導くことこそが魔族の役割ではないのか。
『信頼しているよ』―――ジェシカの脳裏で、甘い声が何度も蘇る。
「とにかく居ずまいからです。いいですね?」
「綺麗なのに…」
「お返事は?」
「…はーいー」
歯の隙間から嫌そうに息をはく勇者に、ジェシカはにっこりと笑った。
俄然、やる気が出てきた!
「野良犬だって、躾次第ではそれなりになるはずです! ビシバシいきますので覚悟してください」
「えぇー…?」
ジェシカはスカートをひらりとひらめかせると、天に向かって恭しく手を組んだ。
あぁ、偉大なる魔王陛下…。
陛下にはなにもかもがお見通しなのですね。
それからしばらくの間、洗顔のたびにちょっとためらうジェシカの姿が目撃されるのだった。
-fin-